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たゝせ給ふ。治曆四年四月に皇太后宮にあがらせ給ひき。內にまゐらせ給ひて、藤壺におはしましけるに、故中宮の、これにおはしましゝ事など、思ひいだして、出羽の辨が淚つゝみあへざりければ、大貳の三位、

  「しのびねの淚なかけそかくばかりせばしと思ふころのたもとに」

とよまれ侍りければ、出羽の辨、

  「春の日にかへらざりせばいにしへの袂ながらや朽ちはてなまし」

とぞかへし侍りける。

馨子の內親王と申すも、又同じ御はらにおはします。長元四年に賀茂のいつきにて、同九年に出でさせたまひて、永承六年十一月、後三條の院東宮におはしましゝ、女御に參らせたまひき。御とし廿三。承保〈延久イ〉元年六〈七イ〉月廿二〈三イ〉日、皇后宮にたち給ふ。延久五年四月廿一日、御ぐしおろさせ給ひき。院の御ぐしおろさせ給ひし同じ日、やがて同じやうにならせ給ひし、いとあはれに、契り申させ給ひける御すぐせなり。后の位はもとにかはらせ給はず。入道殿の第六の君は、後冷泉の院の御母におはします。みかどの御ついでに申し侍りぬ。

     梅のにほひ

關白前の太政大臣賴通のおとゞは、法成寺入道おほきおとゞの太郞におはします。御母、宮たちに同じ。從一位源の倫子と申す。一條の右大臣雅信のおとゞの御むすめなり。鷹司殿と申す。この宇治のおほきおとゞ、大臣の位にて五十六年までおはしましき。後一條の院の御を