Page:Kokubun taikan 07.pdf/355

提供:Wikisource
このページは校正済みです

うとゝかやなる人の、鳥羽の院にときめく人にて、いとほしみの餘りにや。二條の院、東宮とておはしましゝ御めのとにて、位につかせたまひにしかば、內侍のすけなど聞こえき。そのゆかりにて、時にあへりしに、內の御方人どもの、かく事にあへりしかばにや、又源氏どもの然るべく失せむとてにやありけむ。又さばかりの少納言埋まれたる、索めいでたるにやよりけむ、かくぞなりにし。かやうにて今は何事かはとおぼえしに、かくおはしますべかりけるを、その折も又いかゞうたがはせ給ひけむ、皇子の御方人とおぼしき人、つかさのきなどして、又流させ給へりき。大かた六七年のほどに、三十餘人ちりぢりにおはせし、あさましく侍りき。輕きにしたがひて、やうやう召しかへされしに、惟方いつとなくおはせしかば、かしこより都へ、女房につけてときこえし、

  「このせにも沈むときけば淚がは流れしよりもぬるゝ袖かな」

とぞよまれ侍りける。此の兄に、大納言光賴ときこえ給こし、四十餘りにてかしらおろして、桂の里にこそ籠もりゐ給ふなれ。それはかやうの事に、かゝり給ふ事なく、何事もよき人ときゝたてまつりし、いとあはれにありがたき御心なるべし。又右兵衞の督成範ときこえし、紀の二位のはらにて、その折は、播磨の中將、弟の美濃の少將などきこえし、衞門の督のみだれに、ちりぢりにおはせし時、中將下野へおはして、かしこにてよみ給ひける、

  「わがためにありけるものを下野や室の八島にたえぬ思ひは」

とかや。ひが事どもや侍らむ。