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かどの御母におはしますのみにあらず、行く末までの御有樣申すもおろかなり。始めかやう院のやしなひ申させ給ひしは、叡子內親王と聞こえたまひしは、うせさせ給ひにき。其のつぎ姬宮は暲子內親王八條の院と申すなるべし。院にやがて養ひ申させ給ひて、あさ夕の御なぐさめなるべし。をさなくて物などうつくしうおほせられて、「わか宮は東宮になりたり。われは東宮のあねに成りたり」など仰せられければ、院は「さる司やはあるべき」など興じ申させ給ひけるなどぞ聞こえはべりし。この宮保延三年ひのとの巳の年に生まれさせ給ひて、保元二年六月御ぐしおろさせ給ふ。御とし廿一とぞ聞こそさせ給ひし。應保元年十二月に、院號きこえさせ給ふ。二條のみかどの御母とて、后にもたゝせ給はねども、女院と申すなるべし。小一條院の、東宮より院と申しゝやうなるべし。近衞のみかど生まれさせ給ひてのち、永治元年十一月にや侍りけむ。かのとの酉の年、又姬宮、六條殿にて生みたてまつり給へりし、二條のみかど、東宮ときこえさせ給ひし時、保元元年の比、御息所と聞こえさせ給ひて、みかど位につかせ給ひしかば、平治元年十二月廿六日、中宮ときこえさせ給ひしに、永曆元年八月十九日御なやみとて、御ぐしおろさせ給ふ。御とし廿とぞきこえさせ給ひし。いとたぐひなく侍りき。應保二年二月十三日、院號ありて高松の院と申す。この宮々の御母、國母にておはしましゝ程に、近衞のみかどかくれさせ給ひて、歎かせ給ひしに、次の年鳥羽の院うせさせ給ひし時は、北おもてに侍ふと侍ふ下﨟どもかきたてゝ、「院のおはしまさゞらむには、たしかに女院に侍へ」とてわたされ侍りけり。女院は法皇の御病ひのむしろに、御ぐしおろさ