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御母にて、まだ御子も生ませ給はねば、めづらしく養ひ申させたまふ。きさきの親にては、關白殿おはしませば、御子のおほぢにて、かたがたみかどもきさきも、御子おはしまさぬに、院も御心ゆかせ給ひて、いと心よき事いできて、いつしか八月十七日東宮にたゝせ給ふ。昭陽舍に御しつらひありて渡らせ給ふ。大夫には堀川大納言なり給ふ。御母のをぢに坐して殊に選ばせ給へるなり。御母女御の宣旨かぶり給ふ。願ひの御まゝなり。男宮の嬉しさもいふばかりなきうへに、御みめも御心ばへも、いと美くしう、此の世のものにもあらず。さかしくおとなしくて、日の御座の事ある每に、大夫の抱き參らせ給へるにも、泣きなどし給はず。ゐさせ給ふ程には、御しとねの上にひとりゐさせ給ひて、おとなのやうにおはしませば、かひがひしく見奉る人も歡びの淚おさへがたかりけり。かくて同七年十二月七日、御年三つにて、位讓り申させ給ふ。近くは五つなどにてぞつかせ給へども、心もとなさにやすがやかにゐさせ給ひぬ。御母女御殿、皇后宮に立たせ給ふ。御年廿五にや。御即位大甞會など、心ことに世も靡きてなむ見え侍りける。おとなにならせ給ふまゝに、御有樣然るべき前の世の御契と見え給へり。攝政殿の御弟の左のおとゞ、女御奉らせ給ひて、皇后宮にたち給ひぬ。猶足らずや思しめすらむ、院より御さたせさせ給ひて、大宮の大納言のむすめ、關白殿の御子とて、北の政所の、御せうとのむすめれば、御子にし奉り給ふ。御かたがたはなばなといどみ顏なるべし。殿のあに弟の御中よくもおはしまさねば、宮もいとゞ隔多かるに、關白殿は、うちのひとつにて、ひとへに中宮のみのぼらせ給ひて、皇后宮の御かたをは、疎くおはしましける。か