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國に流されたる阿闍梨とて、昔ありけるが、この院に生まれさせ給へるとぞ、人の夢に見えたりける。その墓のかたはらによき方にあたりたりければとてぞおはしますなる。八重の汐路をかき分けて、はるばるとおはしましけむ、いと悲しく、心ちよきだにあはれなるべき道を人もなくて、いかばかりの御心ちせさせ給ひけむ。このみかどの御母ぎさき、十九と申しゝ御年此の帝をうみたてまつらせ給ひて、御子位につかせ給ひてのち、廿三の御年后の位をさらせ給ひて、待賢門院と申す。同じ國母と申せど、白河の院の御むすめとて養ひ申させ給ひければ、ならびなく榮えさせたまひき。まして院號はじめなどはいかばかりかもてなし聞こえたまひし。多くの御子うみたてまつらせ給ひ、今の一の院の御母におはしませば、いとやんごとなくおはします。仁和寺に御堂つくらせ給ひ、こがねの一切經などかゝせ給ひて、康治二年御ぐしおろさせ給ふ。御名は眞如法とつかせ給ふとぞ。久安元年八月廿二日、かくれさせ給ひにき。又のとしの正月に、かの院の女房の中より高倉のうちのおとゞのもとへ、

  「みな人はけふのみゆきといそぎつゝ消えにし跡はとふ人もなし」。

顯仲の伯のむすめ、堀河の君の歌とぞきこえ侍りし。この女院の御母は、但馬守隆方の辨の女なり。從二位充子とて、ならびなく世にあひたまへりし人におはすめり。