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る。みかどの御養ひ子、例なきことゝて、皇太弟とぞ宣命にはのせられ侍りける。その御さだに、「けふ延ぶべし」など內より申させ給ひけれど「事始まりていかで」とてなむその日侍りけるとぞ聞え侍りし。今のうちには、職事殿上人など仰せ下され、あるべきことどもありて、新院は九日ぞ三條西の洞院へわたらせ給ふ。太上天皇の御尊號たてまつらせ給ふ。かくて年へさせ給ふほどに、近衞のみかどかくれさせ給ひぬれば、今の一院の、今宮とておはします、位につかせ給ひにき。さるほどに鳥羽の院御心ちおもらせ給ひて、七月二日うせさせ給ひぬれば、みかどの御代にて定まりぬるを、院のおはしましゝ折より、きこゆる事どもありて、御垣のうち、きびしく固められけるに、嵯峨のみかどの御時、兄の院と爭はせ給ひけるやうなる事いできて、新院御ぐしおろさせ給ひて、御おとゝの仁和寺の宮におはしましければ、しばしはさやうに聞えし程に、八重の汐路をわけて、遠くおはしまして、上達部殿上人の、ひとり參るもなく、一宮の御母の兵衞の佐ときこえ給ひし、さらぬ女房、ひとり二人ばかりにて、男もなき御旅ずみも、いかに心ぼそく朝夕におぼしめしけむ。親しくめしつかひし人ども皆うらうらに都を別れて、おのづからとゞまれるも、世の怖ろしさにあからさまにもまゐることだにもなかるべし。皇嘉門院よりも、仁和寺の宮よりも、しのびたる御とぶらひなどばかりやありけむ。たとふる方なき御すまひなり。あさましき鄙のあたりに、九年ばかりおはしまして、憂き世のあまりにや、御病も年にそへて重らせ給ひければ、都へかへらせ給ふこともなくて、秋八月廿六日に、かの國にてうせさせ給ひにけりとなむ。白峰のひじりといひて、かの