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御覺えにて夏はみづし所に氷めしてたまふ。おのづからなき折ありけるには、すゞしき御扇なりとて、たまはせなどせさせ給ひけり。宗輔のおほきおとゞ、近衞のすけにおはしけるほどなど夜もすがら御笛ふかせ給ひてぞあかさせ給ひける。和歌をもたぐひなくよませ給ひて、さつきの比、つれづれにおぼしめしけるにや。歌よむをとこ女、よみかはさせて御覽じけり。大納言公實中納言國信などよりはじめて、俊賴などいふ人々も、さまざまの薄葉に、かきてやり給ひけり。女は周防內侍、四條宮の筑前、高倉の一宮の紀伊、前齋宮のゆり花、皇后宮の肥後、津の君などいふ、ところどころの女房、われもわれもと返しあへり。又女のうらみたる歌よみて、男のがりやりなどしたる、堀川院の艷書合とて、末の世までとゞまりて、よき歌はおほく撰集などに入れるなるべし。ふたまにてぞ、講じてきこしめしける。又時のうたよみ十四人に、百首歌おのおのにたてまつらせ給ひけり。をとこ女僧など、歌人みな名あらはれたる人々なり。題は匡房の中納言ぞたてまつりける。この世の人、歌よむなかだちには、それなむせらるなる。尊勝寺作られ侍りけるころ、殿上人に、華鬘あてられ侍りけるに、俊賴歌人にておはしけるに、百首歌あんぜむとすれば、いつもじには華鬘とのみおかるゝと聞かせたまひて、「ふびんの事かな」とて、のぞかせ給ひけるとぞきこえ侍りし。いづれの頃にかありけむ。南殿か仁壽殿かにて、御覽じつかはしけるに誰れにか有りけむ。殿上人のまゐりて、殿上にのぼりてゐたりければ、

  「雲の上に雲のうへ人のぼりゐぬ」