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あまも絕えにき。おのづから網など持たるあまの笘屋もあれば、とり出だしてたぐなはの殘るもなく烟りとなりぬ。もたる主はいひしらぬめどもみて、罪をかぶる事かずなし。神の御厨ばかりぞゆるされて、かたのやうに備へて、その外は、殿上の臺盤なども六齋にかはる事なかりけり。位におはしましゝ時は、中宮の御事なげかせ給ひて、多くの御堂ども作らせ給ひき。院の後はその御むすめの郁芳門院かくれさせ給へりしこそ、限りなく歎かせ給ひて、御ぐしもおろさせ給ひしぞかし。四十五六の程にやおはしましけむ。御なげきのあまりに世をばのがれさせ給へりしかども、御受戒などは聞こえさせ給はで、佛道の御名などもおはしまさゞりけるにや。敎王房と聞えし山の座主、御祈りの祭文に、御名の事申されけるに「いまだ付かぬと仰せられければ、其の心を得侍りてこそ申しあげ侍らめ」と申されけるとかや。そののち久しく世を治めさせ給ひしほどに、七月七日俄に御心ちそこなはせ給ひて、御霍亂などきこえしほどに、月日も歷させ給はで、やがてかくれさせ給ひにしかば、そらのけしきも、常にはかはりて、風雨の音もおどろおどろしく、日を重ねて世のなげきもうちそへたる心ちして侍りき。あさましき心のうちにも、すきずきしかりし人にて、平氏の刑部卿忠盛ときこえし、この折何のかみとか申しけむ。その歌とて傳へ聞き侍りし、

  「又もこむ秋をまつべき七夕のわかるゝだにもいかゞ戀しき」

とかや。鳥羽の院、花園のおとゞ、攝政殿などの、若き御すがたに御ぞども染めさせ給ひて、御忌の程、佛の道のこととぶらひ申させ給ふ。いづれのほどに、たれかよませ給ひけるとか