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卿ときこえし。御子二人おはせしも五位にて典藥助主殿頭などいひて、いと淺くてやみ給ひにき。かくばかり末榮え給ひける中納言殿をやへやへの御おとゝにて越え奉り給へりける、御あやまりにやとこそ覺え侍れ。

     贈太政大臣權中納言從二位左兵衞督長良

この中納言は冬嗣のおとゞの太郞、母は白川大臣西三條大臣に同じ。公卿にて十三年、陽成院の御時に御おほぢにおはするが故に、元慶元年丁酉正月に贈左大臣正一位、又贈太政大臣枇把大臣と申す。このおとゞ御子六人おはせし。その中に基經のおとゞすぐれ給へり。

     太政大臣基經

このおとゞは長良中納言の三郞におはす。この基經のおとゞの御むすめ、醍醐の御時の后、朱雀院天皇幷に村上二代の御母后におはします。このおとゞの御母、贈太政大臣總繼の女、贈正一位大夫人乙春なり。陽成院位に即かせ給ひて攝政の宣旨をかうぶりたまふ。御年四十一。寬平の御時、仁和三年丁未十一月廿一日關白にならせ給ふ。御年五十六にて寬平三年正月十三日うせ給ひにき。御いみな昭宣公と申す。公卿にて廿七年。大臣の位にて二十年。世をしらせ給ふ事十餘年かとぞおぼえ侍る。世の人堀川の大臣と申す。小松の御門の御母、この殿の御母のはらからにおはします。さてちごより小松の御門を親しく見奉らせ給ひて、事にふれてきやうざくにおはしますを、あはれ君かなと見奉らせ給ひけるが、良房のおとゞの大饗にや、むかしはみこたち必ずつかせ給ふことにて、渡らせ給へるに、雉足は必ず大饗にも