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り。眞言の事は、ふみはなくて唯問はせ給ひければ、事の有樣、又申し述べなどしけり。其の後、俗の文の事を仰せられければ、法文にあはせつゝ、それもあへしらひ申しけり。末つ方に「極樂と兜率と、いづれをか願ふ」とのたまはせければ、「いづれをも望みかけ侍らず。たゞ日每に法華經一部兩界など行ひ侍るを、怠らで彌勒の世までしはべらばやと思ひ給へて、大鬼王のいのち長きにて行ひ此の定にしつゝ侍らむとぞ願ひはべる」とぞ申しける。須彌山のほとりに、しかある鬼の行ひなどするありと見ゆる經の侍るとぞ、後に誰れとかや申され侍りける。鬼は化生のものなれば、生れて程なく行ひなどしつきて、怠るまじき心に申しけるとぞ。さて又仰せられけるは、御祈りなど、取りたてゝせむこともかなひ難ければ、さしたることも仰せられつけず。たゞ心にかけて、行ひのついでに祈りて、穩かに保たむ事を、心に掛くべきなりとぞのたまはせける。位につかせ給ひて、たづねさせ給ひければ、藥智は身まかりにけり。弟子なりける法師をぞ僧綱になさせ給ひける。おほうへの法橋顯耀とか云ひけるとなむ。東宮におはしましける時、世のへだて多く坐しましければ、危く思しけるに、檢非違使の別當にて經成〈盛イ〉といひし人、直衣に柏夾にて、やなぐひ負ひて中門の廊に居たりける日は、いかなる事の出できぬるぞとて、宮のうちの女房より始めて、隱れ騷ぎけるとかや。おはしましける所は、二條東の洞院なりければ、そのわたりを、いくさのうち廻りて、つゝみたりければ、「かゝる事こそ侍れ」など申しあへりける程に、別當の參りたりければ、東宮も御直衣たてまつりなどして御用意ありけるに、別當、檢非違使めして「をかしの者は召し捕りたりや」