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ぞ」と問はせたまひけるに「右少辨正家」と申ければ、「辨官ならば近くさぶらへ」とぞ仰せられける。正家匡房とて、時にすぐたれる一つがひの博士なるに、匡房は朝夕さぶらひけり。これは御覽じも知られまゐらせざりけるにこそ。つかさをさへ具して、名對面申しけむ、折節につけて、いとかどある心ばへなるべし。さてこそ、これかれの殿上人上達部、束帶なるも、又直衣狩衣などなる人も、とりもあへずさまざまに參りあつまりたりけれとなむきこえ侍りし。


今鏡第二

    すべらぎの中

     たむけ

此の帝、世をしらせ給ひてのち、世の中みな治まりて、今にいたるまで、其のなごりになむ侍る。たけき御心おはしましながら、又なさけ多くぞおはしましける。石淸水の放生會に上卿宰相諸衞のすけなどたてさせ給ふ事も、この御時より始まり、佛の道もさまざまそれよりぞまことしき道は、おこれる事多く侍るなる。圓宗寺の二會の講師おかせ給ひて、山三井寺ざえ高き僧など、位たかくのぼり、深き道もひろまり侍るなり。又日吉の行幸はじめてせさせ給ひて、法華經おもくあがめさせ給ふ。かの道ひろまる所を、おもくせさせ給ふ事は、誠に御