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ならば、今の人の作りたることよも出だし給はざらまし。殿上人紫苑色の指貫、この御念佛よりこそ着始め給ひしか。此の堂土御門の末にあたれば、上東門院と申すなり。この後代々の女院の院號、かどの名きこえ侍るめり。陽明門も、近衞にあたりたれば、此の例によりて附かせ給へり。郁芳門待賢門などは、大炊御門、中のみかどに御所おはしまさねど、なぞらへて附かせたまへるとぞ聞こえ侍る。待賢門院の院號のさだめ侍りけるに、なぞらへて付かせたまふならば、などさしこえて、郁芳門院とは付けたてまつりけるにか、など聞こえければ、顯隆の中納言といひし人の「此の御料に遺しておかれけるにこそ侍るめれ」と申されけるとかや。さてぞ付かせ給ひにけるとなむ。みかどの御前などにては、土御門近衞などは申さで、上東門の大路よりはいづかた、陽明門のおほぢよりはそなたなどぞ奏すなる。されば一條二條など申すにもおなじ心なるべし。この上東門院の御年は、八十七までおはしましき。

     菊の宴

此の次のみかどは、御冷泉の院と申しき。後未雀院の第一の皇子。御母內侍のかみ、贈皇太后宮嬉子と聞えき。入道おほきおとゞの第六の御むすめなり。上東門院のおなじ御はらからにおはします。此のみかど萬壽二年きのとの丑の年の八月三日生れさせ給へり。長曆元年七月二日御元服、やがて三品の位たまはらせ給ふ。八月十七日に東宮に立たせ給ひて、寬德二年正月十六日に即かせたまふ。御とし二十一にぞおはしましゝ。永承元年やよひの比、いつきたち、おのおの定めさせ給ふ。七月十日中宮たゝせたまひき。東宮の御時より御息所にてお