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とて殊になさけある人に侍りしかば、常にまかりかよひなどして、彼の宮のこともうけ給はりなれ侍りき。その式部卿の親王の御むすめにおはしませば、みかどには姪に當らせ給へり。かくて彌生のついたちに、后に立たせ給ひぬ。御とし二十二にぞおはしましゝ。もとの后は皇后宮にならせたまひき。そのもとの后は、みかど東宮におはしましゝ時より、參り給へりき。三條院の姬宮におはします。それは御とし廿五にならせたまへりき。陽明門院と申すはこの御事なり。御ぐしのうつくしさを、故院「見まゐらせぬ、くちをし」とて、さぐり申させ給ひけむも思ひやられて。同じきさきと申せども、やんごとなくおはします。久しく內へ參らせ給はざりけるころ、うちより、

  「あやめ草かれし袂のねをたえてさらに戀路にまどふころかな」

と侍りけむ、御返事はわすれにけり。東宮におはしましゝ時の御息所なり。この后に御堂の六の君まゐり給ひて、內侍のかみときこえたまひし、後冷泉院の今の東宮におはしましゝ生みおきたてまつりて、うせ給ひしかば、この宮は、その後參り給へるなり。故內侍のかみの御もとに、「かすみのうちにおもふ心を」とよませ給ひたる御歌、たまはり給ひけると聞こえ侍りしものを。長曆元年神無月の廿三日、關白殿の高陽の院に、上東門院わたらせ給ひて、行幸ありて、きんだち院司など加階どもし給ひき。かくて年もあけぬれば、又正月二日上東門院に朝覲の行幸ありて、いづくと申しながら、猶この院のけしき有樣、山の嵐よろづ世よばふ聲をつたへ、池の水も、ちとせのかげをすまして、まちとりたてまつり給ひき。先帝かくれさ