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はします。このみかど寬弘六年つちのとの酉と申しゝ年の霜月の廿五日にうまれさせたまひけり。七年正月十六日に、親王ときこえさせ給ふ。御年九つときこえさせ給ひき。長元九年四月十七日位につかせたまふ。御とし二十八。其の年御即位大甞會など過ぎて、年もかはりぬれば、いつしか、む月の七日、關白左のおとゞとて宇治のおほきおとゞおはしましゝ、女御たてまつらせ給ふ。帝の御兄におはしましゝ式部卿の御子の女ぎみの、むらかみの中務の宮の御むすめの御はらにおはせしを、關白殿御子にしたてまつり給ひて、女御にたてまつり給へるなり。一條院の皇后宮の生みたてまつりたまへりし一の御子におはしませば、東宮にもたち給ふべかりしを、御後見おはしまさずとて、二のみこにて、先帝、三のみこにて此のみかどふたり、御堂のうまご、關白の御甥におはしませば、うちつゞき即かせたまへるなり。彼の一條院の皇后宮は、御せうとの內の大臣の、筑紫におはしましゝ事どもに、おもほしなげかせ給ひて、御樣かへさせ給へりしのちに、式部卿の御子を生みたてまつらせ給へるなり。から國の則天皇后の御ぐしおろさせ給ひてのちに、皇子生み給ひけむやうにこそおぼえ侍りしか。されどかれはさきのみかどの女御にて、彼の帝かくれさせ給ひにければ、世をそむきて、感業寺とかいふ寺に住み給ひけるを、先のみかどの御子位につき給ひて、かの寺におはして見たまひけるに、御心やよりたまひけむ。さらに后に立て奉りけるを、これは同じ御代の元のきさきなれば、いたくかはり給はぬさまにて、なのめなる樣にて侍りき。かしこき御世の御事申し侍るもかたじけなく。かの皇后の女房、肥後守元輔と申すがむすめ、淸少納言