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に三四人おはせしを歎きて、氏のさかえを願してたて給へりしなり。誠にそのしるしと見え侍り。神武天皇より後御門の御後見代々におはすれども、子孫相繼ぎて今日あすまでかくおはするはこの藤氏こそはおはすめれ。六月一日官府を下し給ひて病人を道のほとりに出し捨つる事をとゞめさせ給ひき。「尊きもいやしきも命ををしむ心はかはる事なきを、世の人生けるをりは苦しめ使ひて病づきぬれば即ち大路にいだす。扱ひ養ふ人さらになければつひに飢ゑ死ぬ。永くこの事をとゞむべし」とおおせ下されしこそめでたき功德とおぼえ侍りしか。この頃もやすくありぬべき事なり。五年の春傳敎大師もろこしへ渡り給ひしをりの願を遂げむとて、筑紫へおはして佛をつくり經をうつしたまふ。又宇佐の宮の神宮寺にてみづから法華經を講じたまひしに、大菩薩詫宣し給ひて「われ久しくのりを聞かざりつ、今わがためにさまざまの功德を行ひ給ふ、いとうれしき事なり。わがもてる衣あり」とのたまひて詫宣の人御殿に入りて紫の七條の御袈裟一帖、紫の襖一領を大師に奉り給ひき。ねぎほふりなど「昔より斯る事をいまだ見聞かず」と申し侍りき。その御袈裟襖今に比叡の山にあり。五月八日皇子たち源といふ姓をたまはり給ひき。同七年弘法大師入定のところを高野の山に定め給ひき御年四十三。同十三年六月四日傳敎大師うせ給ひにき。生年五十六年になむなり給ひし。同十四年御門位を御おとゝの東宮に讓り奉りて、やがてその御子の治部卿親王恆世を東宮に立て申し給ひしを、親王あながちに遁れ申し給ひて籠り居て御使をだに通はし給はざりしかば、仁明天皇の御子にておはしましゝを東宮に立て給ひき、位をこそ東宮にてお