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給へるたぐひあまたおはすめり。さやうのたぐひ七人〈或本十人〉ばかりやおはすらむ。わざとの太政大臣はなりがたく、すくなくぞおはする。神武大皇より三十七代に當り給へる孝德天皇と申したる御門の御代より、幷に八省百官左右大臣內大臣なりはじめ給へらむ。左大臣には安倍の倉橋麻呂、右大臣には蘇我の山田の石川麻呂、これは元明天皇の御おほぢなり。石川麻呂大臣、孝德天皇位に即き給ひて、元年乙巳大臣になり、五年つちのとのとり春宮のために殺され給へりとこそは。これはあまりあがりたる事なり。內大臣には大中臣の鎌子の連なり。かの時年號あらざれば月日申しにくし。又三十九代にあたり給へる御門天智天皇こそは始めて太政大臣をばなし給へりけれ。それはやがてわが第二の王子におはしける大友王子なり。正月に太政大臣になり給へり。天智天皇十年二月三日うせ給ひて後、大友の王子われ位に即かむとてしたまひしに、六月廿六日この王子を殺して、おほみの王子位に即き給ひて天武天皇と申し給ひき。世をしらせ給ふこと十五年。神武天皇より四十一代に當らせ給ふ持統天皇、又太政大臣にたけちの王子をなし給へり。天武天皇の王子なり。この二人の太政大臣はやがてみかどゝなり給へり。たけち王子、大臣ながらうせ給ひにけり。その後、太政大臣いとひさしく絕え給へり。但、職員令には太政大臣にはおぼろけの人はなすべからず。もしそれなくばたゞにおかるべしとこそありければ、おぼろけの位にはあらぬにや。四十二代に當り給ふ文武天皇の御時に年號定りて大寳元年といふ。文德天皇の末の年、齊衡四年丁丑二月十九日、御門の御おほぢ〈をぢとも〉右大臣從一位藤原良房のおとゞ太政大臣になり給ふ。御年五十