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申しゝかば、御門ゆるし給ひき。百川僞りて宣命をつくりて人々をもよほして太政官にして宣命を讀ましむ。皇后及び皇太子をはなち追ひ奉るべしとなり。この事をある人御門に申すに、御門大におどろき給ひて、百川を召して「后なほこり給はず、しばし東宮をしりぞけむことこそ申しこひつるに、いかにかゝる事はありけるぞ」とのたまふに、百川申していはく「退くとは永くしりぞくる名なり。母つみあり、子おごれり、誠にはなち追はむに足れることなり」と少しもわたくしあるけしきなく、偏に世のためと思ひたる心かたちに顯れて見えしかば、御門かへりて百川におぢ給ひて、ともかくものたまはせずしてうちうちになげき悲び給ふ事限なかりき。これも百川のはかりごとにて位に即き給へりし功勞のはかりもなかりしかば、唯申すまゝにておはしましゝなり。同四年正月十四日に山部親王の中務卿と申しておはせし、東宮に立ちたまふ。この事偏に百川のちからなり。その故は、まづ等定と申しゝ僧を百川梵釋寺にこめて、この親王を位に即け奉らむといふことを祈り申さしめき。その僧、親王の御たけの寸法をとり奉りて、梵天帝釋を造り奉りて行ひ奉りき。大臣以下御門に申していはく「儲の君しばしも坐せずしてあるべき事ならず。速に立て奉り給へ」と申しゝかば、御門「誰をか立つべき」とのたまはせしかば、百川すゝみて「第一の御子山部親王を立て申し給ふべし」と申しき。御門仰せらるゝやう「山部は無禮の親王なり。我いかにいふともいかで后をばをかすべきぞ」とのたませしを、百川申していはく「この仰せ事いはれなく侍り。父のいふ事を違へざるを孝子とはいふなりと仰事ありしかばこそ、親王はおほせに從ひ給ひしか。