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ほどに、百川やがて兵をもよほして白壁王を迎へ奉りて御門と定め奉りてき。この御門の位に即き給ふことはひとへに百川のはかり給へりしなり。廿一日に道鏡をば下野國へ流し遣す。大納言ゆげのきよ人を土佐へ流しつかはす。このきよ人は道鏡がおとゝなり。十一月一日位に即き給ふ、御年六十二。世をしり給ふ事十二年なり。粉河寺は今年建てられしなり。寳龜三年に御門井上の后と博奕し給ふとて、たはぶれ給ひて「われ負けなばさかりならむ男をたてまつらむ。后負け給ひなば色かたちならびなからむ女をえさせ給へ」とのたまひてうちたまひしに、御門負け給ひにき。后まめやかに御門をせめ申し給ふ。御門たはぶれとこそおぼしつるにことにがりて思ひわづらひ給ふほどに、百川この事を聞きて「山部親王を后にたてまつり給へ」と御門にすゝめ申しき。この山部親王と申すは桓武天皇なり。さて百川また親王の御もとへ參りて「御門この事を申し給はむずらむ。あなかしこいなび申し給ふな。思ふやうありて申し侍るなり」と申しゝほどに、御門親王を呼び奉りたまひて「かゝる事なむある。きさきの御もとへおはせ」と申し給ひしに、親王おそれかしこまりて「あるべきことに侍らず」と申してまかり出で給ひしを、たびたび强ひ申し給ひしかども、なほうけたまはり給はざりしかば、御門「孝といふは父のいふ事にしたがふなり。われとし老いてちから堪へず。すみやかに后のもとへまゐりたま」へとせめのたまひしかばえのがれ給はずして、遂に后の御もとへ參り給ひにき。さて后この親王をいみじきものにしたてまつり給ひし。いとけしからず侍りし事なり。この后御年五十六になり給ひき。この御腹の他戶の親王は御門の第