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へ」と祈り申しゝかば、即ちかたちを顯し給ひき。御たけ三丈ばかりにてもち月の如くにて光り耀き給へり。淸麿きもたましひも失せてえ見奉らざりき。この時に重ねて詫宣したまはく「道鏡諂へる幣帛をさまざまの神たちに奉りて世を亂らむとす。我れ天の日繼のよわくなりゆくことをなげき、惡しきともがらの起り出でむとすることをうれふ。彼は多くわれはすくなし。佛の御力をあふぎて御門のすゑを助け奉らむとす。速に一切經を書き佛像をつくり最勝王經一萬卷を讀み奉り、一つの伽藍を建てゝこのあしき心ある輩をうしなひ給へと申すべし。この事一言も落すべからず」とのたまはせき。淸麿かへりまゐりてこのよしを申しゝかば、道鏡大にいかりて、淸麿がつかさをとり大隅の國へ流しつかはしてよぼろの筋を斷ちてき。淸麿かなしびをなして輿に乘りて宇佐の宮へまゐりしに、猪三萬ばかりいできたりて道の左右に步みつらなりて十里ばかり行きて山の中へ走りいりにき。かくて淸麿宇佐に參りつきて拜し奉りしに、即ちもとの如く立ちにき。詫宜したまひて神封の綿八萬餘屯をたまはせき。同四年三月十五日に御門由義の宮に行幸ありき。道鏡日にそへて御おぼえさかりにて世の中既にうせなむとせしを、百川うれへ歎きしかども力も及ばざりしに、道鏡御門の御心をいよいよゆかし奉らむとて思ひかけぬものを奉れたりしに、あさましきこといできてならの京へかへらせおはしましてさまざまの御樂どもありしかども、そのしるし更に見えざりしに、ある尼一人いで來りていみじき事どもを申して「やすくをこたり給ひなむ」と申しゝを、百川怒りて追ひいだしてき。御門終に此事にて八月四日うせさせ給ひにき。こまかに