Page:Kokubun taikan 07.pdf/261

提供:Wikisource
このページは校正済みです

また聖武天皇は太上天皇とて同じくこの供養にあはせ給ひき。八幡の宮もおはしましき。めでたく侍りし事どもなり。皆人しり給へる事どもなり。天平勝寶四年三月廿四日に東大寺の大佛に始めてこがねを塗り奉りき。四月九日萬僧を請じて供養したてまつり給ひき。今年ぞかし、道鏡內へまゐりて如意輪法を行ひし程に、やうやう御門の御おぼえいできはじまりしかば、弓削の法皇と申しゝはこの人なり。寶字二年御門位を東宮に讓り奉り給ひて太上天皇と申しき。


水鏡卷下

   四十八廢帝〈天平寶字六〉

   四十九稱德天皇〈天平神護二神護慶雲三〉

   五十光仁天皇〈寶龜十一天應一〉

   五十一桓武天皇〈延曆廿四〉

   五十二平城天皇〈大同四〉

   五十三嵯峨天皇〈弘仁十四〉

   五十四淳和天皇〈天長十〉

   五十五仁明天皇〈承和十四嘉祥三〉

     第四十八廢帝〈天平寳字九年十月崩。年卅三。葬淡路國三原郡陵。〉

次の御門廢帝と申しき。天武天皇の御子に一品舍人親王と申しゝ第七の御子なり。御母は上總守當麻老の女なり。天平寶字元年四月に東宮に立ち給ふ。御年二十五。おなじ二年八月一日位に即き給ふ。御年二十六。位にて六年ぞおはしましゝ。この御門東宮に立ち給ひしをり