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     第四十四元明天皇〈養老五年十二月四日崩。年六十一。葬大和國添上郡椎山陵。〉

次の御門元明天皇と申しき。天智天皇の第四の御女。御母蘇我の大臣山田石川麿の女嬪姪娘なり。この御門は文武天皇の御母におはします。文武天皇いまだ三十にだに及び給はでうせさせおはしましにし。いと心うかりしことなり。その時聖武天皇はいまだいとけなく坐しましき。八歲にやならせ給ひけむ。この頃こそ二つ三つにても位に即かせ坐しますめれ。その程まではさる事なかりしかば、御母にて位に即かせ給へりしなり。慶雲四年七月十七日位に即き給ふ。御年三十六。世をしり給ふ事七年なり。五年正月十一日に武藏より銅をはじめて奉りしかば、年號を和銅とかへられにき。三月不比等右大臣になり給ふ。同二年五月に、新羅の使さまざまの物を相具して參れりしに、不比等その使にあひ給ひにき。「昔より執政の大臣のあふ事はいまだなき事なり。しかれどもこの國のむつましき事を顯すなり」とのたまひしかば、使ども座を去りて拜し奉りて、うるはしく又座に即きて「使どもは本國の賤しきものどもなり。きみの仰せをかうぶりて今みやこに參れり。さいはひのはなはだしきなり。しかるに忝くあひまみえ奉りぬ、悅び恐るゝ事かぎりなし」と申しき。國王大臣も時に隨ひてふるまひ給ふべきにこそ。この頃ならばかたおもむきに異國の人に一の人のあひ給ふなき事なりなどぞ誹り申さまし。同三年三月に難波より大和の平城の京へみやこ遷りて、左右京の條坊を定め給ひき。これよりさきざきも代々常にみやこうつり侍りしかども、ことならぬをば申し侍らず。この月に不比等興福寺を山科より奈良の京にうつし建て給ひき。同六年國