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り給ひき。眞實の功德とおぼえ侍りしことなり。この頃もこの思ひをなしてする人侍らばいかにめでたき事にか侍らむ。四年と申しゝ三月に道昭和尙と申しゝ人の室のうちに俄に光滿ちて香しき事かぎりなし。道昭弟子を呼びて「この光を見るや」と問ひしに、弟子見るよしを答へしかば、道昭「ものないひそ」といひし程に、室より光いでゝ寺の庭にめぐりてやゝ久しくしてその光西をさして行きさりて後、道昭繩床に端座して命終りにしかば、弟子ども火をもちてはふりてその骨をとらむとせしに、俄に風吹きて灰だにもなくふき失ひてき。日本に火葬はこれになむはじまり侍りし。五年と申しゝ正月に、不比等中納言になり給ひてやがてその日大納言になり給ひにき。その月とぞ覺え侍る、役の行者伊豆の國より召しかへされて京に入りて後空へ飛びのぼりて我が身は草座にゐ母の尼をば鉢にのせてもろこしへ渡り侍りにき。さりながらも本所を忘れずして三年に一度、この葛城山と富士の峰へとは來り給ふなり。時々はあひ申し侍り。もろこしにては第三の仙人にておはするよしぞ語り給ふ。二月丁未の日釋奠ははじまるとうけたまはり侍りき。三月二十一日に對馬より始めてしろかねをまゐらせたりしかば、大寶元年と年號を申しき。この後より年號は相續きて今日までたえず侍るにこそ。二年と申しゝ七月よりぞ御子だち馬に乘りて九重の內に出で入り給ふ事はとゞまりにし。四年と申しゝ五月五日大極殿の西の樓の上に慶雲見えしかば、年號を慶雲とかへられにき。二年と申しゝに世の中の心ちおこりて煩ふ人おほかりしかば追儺といふ事ははじまれりしなり。