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國々の軍をおこし給ひしにつはものその數をしらず。かくて七月六日より所々にして大友皇子とたゝかひ給ふ。廿一日に勢田に攻めより給ひしに、大友皇子左右の大臣相共に橋の西に陣をはりてたゝかふ。こなたかなたの軍雲霞の如くにしてその數をしらず。矢の下る事雨のごとし。かゝりしほどに皇子の方の軍やぶれて皇子も大臣も僅に命を遁れて山に入りにき。廿三日に皇子みづから遂に命をうしなひてしかば、廿六日にぞその首をとりてふはの宮に奉りし。廿七日に右大臣殺され左大臣ながされにき。そのほかの人々罪をかうぶるおほく侍りき。やがてその日ぞ軍に力をいれたる人々官位どもをたまはせし。御門は皇子の御叔父にておはせしうへに、御しうとにてもおはしましゝぞかし。かたがたしたがひ奉り給ふべかりしをあながちに勝にのり給ひしことの佛神もうけ給はずなりにしにこそ侍るめれ。八月に御門野上の宮に移り給ひたりしに筑紫より足三つある雀の赤きを奉りしかば年號を朱雀元年とぞ申し侍りし。明くる年の三月に備後國より白き雉子を奉りしかば朱雀といふ年號を白鳳とぞかへられにし。三月に河原寺にて始めて一切經をかゝしめ給ひき。九年と申しゝ十一月に后宮御病によりて藥師寺を建てさせ給ひしなり。十三年と申しゝに御門例ならず坐しまして、東宮を始め奉りて百官大安寺にまうでゝ「御門この寺にして法會を行はむとおぼす御願あるを果し遂げ給はずしてやみなむとす。たとひ定業なりとも三年の御命を延べ奉りたまへ。この願を遂げさせ奉らむ」と祈り申しゝに御門御夢に御命延び給ふよし御覽ぜられて御病をこたらせ給ひにしかば、三年の間佛をあらはし經をうつして本意の如く供養し