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來れりき。九月に太子いかるがの宮の夢殿に入り給ひて七日七夜出で給はず。八日といふあしたに御枕上に一卷の經あり。太子のたまはく「この經なむ我が前の世に持し奉りし經にておはします。妹子がもて來れるは我が弟子の經なり。この經に三十四のもじあり。世の中にひろまる經はこの文字なし」となむのたまひし。廿九年二月廿二日太子うせ給ひにき。御年四十九なり。御門をはじめ奉りて一天下の人父母を失ひたるがごとくにかなしびをなしき。大かた太子の御事萬が一を申し侍り。事新しくも申し續くべくもなけれども、めでたき事は皆人しり給へれどもくりかへし申さるゝなり。太子世に出で給はざらましかば、暗きよりくらきに入りて永く佛法の名字を聞かぬ身にてぞあらまし。天竺よりもろこしに佛法傳りて三百年と申しゝに百濟國につたはりて百年ありてぞこの國へ渡り給へりし。その時太子の御力にあらざりせば守屋が邪見にぞこの國の人はしたがひ侍らまし。三十四年と申す六月に大雪ふりて侍りき。

     第卅六舒明天皇〈十三年崩。葬押坂內陵。〉

次の御門舒明天皇と申しき。敏達天皇の御子に彥人大兄と申しゝ皇子の御子なり。御母敏達天皇の御女糠手姬なり。つちのとのうしの年正月四日位に即き給ふ。御年四十七。世をしりたまふ事十三年なり。三年と申しゝにぞ玄弉三藏もろこしより天竺へわたり給ふとうけたまはり侍りし。

     第卅七皇極天皇〈治三年。〉