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ふ。久しからぬを淺香といふ。御門佛法を崇め給ふがゆゑに、釋梵威德のうかべおくり給ふなるべし」と申し給ひき。御門この木にて觀音を作りて、ひそ寺になむ置き奉り給ひし、時々光を放ちたまひき。六年と申しゝ四月に、太子よき馬を求めしめ給ひしに、甲斐の國より黑き馬の四つの足白きを奉りき。太子多くの馬の中よりこれを選び出して、九月にこの馬に乘り給ひて雲の中に入りて東をさしておはしき。麻呂といふ人ひとりぞ御馬の右の方にとりつきて雲に入りにしかば見る人おどろきあざみ侍りしほどに、三日ありて歸り給ひて「われこの馬に乘りて富士のだけに至りて信濃の國へつたはりて歸りきたれり」とのたまひき。十一年と申しゝ十一月に太子のもち給へりし佛像を「この佛誰かあがめ奉るべき」とのたまひしに、秦の河勝進みいでゝ申しうけ侍りしかば、たまはせたりしを、はちをか寺を造りてすゑ奉りき。そのはちをか寺と申すは今のうづまさなり。佛は彌勒とぞ承り侍りし。十四年と申しゝ七月に、御門「わが前にて勝鬘經講じたまへ」と申したまひしかば、太子師子のゆかにのぼりて三日講じ給ひき。そのありさま僧の如くになむおはせし。めでたかりし事なり。翁その庭に聽聞して侍りき。はての夜とぞ覺え侍る。はちすの花の長さ二三尺ばかりなる空よりふりたりし、あさましかりし事ぞかし。御門、その所に寺を建て給ひき。今の橘寺これなり。十五年と申しゝ五月に、御門に申し給はく「昔もち奉りし經、もろこしの衡山と申す所におはします。とり寄せ奉りてこの渡れる經のひが事の侍るに見合せむ」と申し給ひて、小野の妹子を七月にもろこしへつかはしき。明くる年の四月に妹子一卷にしたる法華經をもて