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一言主の神に侍る」と申して、相共に狩をして日暮れてかへり給ひしに、この一言主の神おくり奉りしかば、世の中の人「たゞ人にはおはせぬか」とぞ申しあひたりし。廿三年と申しゝ七月に浦島の子蓬萊へまかりにけりといふ事侍りしなり。皆人のしり給ひたる事なればこまかには申すべからず。

     第廿三淸寧天皇〈五年崩。年四十一。葬河內國坂門原陵。〉

次の御門淸寧天皇と申しき。雄略天皇の第三の御子。御母皇太夫人葛城韓姬なり。雄略天皇の御世廿二年正月に東宮に立ちたまふ。御年三十五。世をしり給ふ事五年。御門生れ給ひて御ぐし白く長かりき。さて白髮皇子とは申しゝなり。民を愛し給ふ御心ありしを父御門御子たちの中に寵じ給ひて東宮に立て奉りしなり。庚申の年正月四日位に即きたまふ。御年三十七。世をしり給ふ事五年なり。この御門位を繼ぐべき人なき事を歎きてよろづの國々に使をつかはして王孫をもとめ給ひしに履中天皇のうまごといふ人二人を播磨國よりもとめ出して、兄をば東宮に立て、弟をば皇子とし給ひき。

     第廿四飯豐天皇〈即位年崩。年四十五。葬大和國垣內丘陵。〉

次の御門飯豐天皇と申しき。これは女帝におはします。履中天皇のみこに押羽皇子と申して黑媛の御腹に王子おはしき。その御むすめなり。御母茅媛なり。甲子の年二月に位に即き給ふ。御年四十五。この御門の御弟二人かたみに位を讓りて繼ぎ給はざりしほどに、御妹を位に即け奉り給へりしなり。さて程なくその年のうち十一月にうせ給ひにしかば、この御門を