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をかは思ひ侍るべき」と申したまふ。御門おほせられていはく「我が身には恐るゝ事あり。このまゝ子の眉輪の王おとなしくなりて、わがその父を殺したりとしりなば、定めてあしき心をおこしてむ」とのたまふを、この眉輪の王、樓の下に遊びありきて聞き給ひてけり。さて御門のゑひて后の御膝を枕にして晝御殿ごもりたるを、傍なる太刀をとりて眉輪の王あやまち奉りて逃げて大臣の家におはしにき。御門の御おとゝの大泊瀨のみこ、この事を聞きて、軍をおこしてかの大臣の家をかこみて戰ひたまひき。眉輪王「もとよりわれ位に即かむとの心なし。唯父のかたきを報ゆるばかりなり」といひて、みづから首を斬りて死ぬ。この眉輪王七歲になむなり給ひし。

     第廿二雄略天皇〈二十三年崩。年九十三。葬河內國高原鷲陵。〉

次の御門雄略天皇と申しき。允恭天皇第五のみこ。御母皇后忍坂大中姬なり。丙申の年十一月十三日位に即き給ふ。御年七十。世をしり給ふ事廿三年なり。この御門生れ給ひし時宮の內なむ光りたりし。おとなになり給ひて後御心たけくして多くの人を殺したまひき。世の人大惡天皇と申しき。二年と申しゝ七月に御門愛せさせ給ひし女こと男にあひにけり。みかどいかり給ひて男女二人ながら召しよせて、四のえだを木の上にはりつけて、火をつけて燒きころし給ひてき。四年二月と申しゝに御門この葛城山にて狩をし給ひしに、御門の御かたちにいさゝかも違はぬ人いで來れりき。御門「これは誰の人ぞ」とのたまはせしに、その人「まづ王の名をなのり給へ。その後まをさむ」と申しゝかば、御門なのり給ひき。その後「われは