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ひて「しからば汝がしうを殺してわれにえさすべし」とのたまふに、そのことにしたがひてしうの皇子の厠におはするをほこをもちて刺し殺してき。みづはの皇子、その人を相具してまゐりてこのよしを申したまふに、東宮ののたまはく、「この人はわがためにくらうあれども、おのれがしうを殺しつればうるはしき心にあらず。されども大臣の位にのぼさせ給ひて今日大臣とさかもりせむ」とのたまはせて、顏隱るゝほどの大なる盃にて東宮まづ飮みたまふ。次にみづはの皇子飮み給ふ。次に大臣のむをりに太刀を拔きて首をきり給ひてき。さて次の年位に即き給ひてのちその黑姬をば后にたて奉らせ給ひしなり。五年九月に、御門淡路の國におはして狩したまひしにそらにかぜのおとに似てこゑするものありしほどに、にはかにひとはしりまゐりてきさきうせたまひぬるよしまうしゝこそ、いとあへなくはべりしか。

     第十九反正天皇〈六年崩。年六十。葬和泉國百舌鳥耳原北陵。〉

次の御門反正天皇と申しき。仁德天皇第四の御子。履中天皇の御おとゝなり。御母皇后磐之媛なり。履中天皇の御世二年正月に東宮に立ちたまふ。御年五十。履中天皇の御子おはせしかどもこの御門を東宮には立て奉らせ給ひしなり。丙午の年正月二日位に即き給ふ、御年五十五。世をしらせ給ふ事六年。御門御かたちめでたくおはしましき。御たけ九尺二寸五分、御齒のながさ一寸二分、上下とゝのほりて玉を貫きたるやうにおはしき。生れ給ひしとき、やがて御齒ひとつ骨のごとくにておひ給へりき。さてみづはの皇子とぞ申し侍りし。この御世