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き人々、なにがしかゞしといふいみじき源氏の武者達をこそ御送にそへられたりけれ。京の程は隱れて、つゝみのわたりよりぞうちいで參りける。寺などにては、若しおして人などやなし奉るとて、一尺ばかりの刀どもを拔きかけて守り申しけるとぞ。〈或本に、寬弘五年二月八日うせさせたまふ。御年四十一。〉

     六十六代

次の御門、一條院天皇と申しき。御諱やすひと。これ圓融院の御門第一の王子なり。御母皇太后宮詮子と申しき。これ太政大臣兼家のおとゞの第二の女なり。この御門、天元三年庚辰六月一日、兼家のおとゞの東三條の家にて生れさせ給ふ。東宮に立たせ給ふ事、永觀二年甲申八月廿八日なり。御年五歲。寬和二年丙戌六月廿三日位に即かせ給ふ。御年七歲。永祚二年庚寅正月五日御元服。御年十一。世をたもたせ給ふ事廿五年。御母は十九にてこの御門をうみ奉り給ふ。東三條の女院とこれを申す。この御母は津の守藤原仲正のむすめなり。〈或本に、寬弘八年六月十三日おりさせ給ふ。同月の廿二日うせさせ給ふ。御年三十二。〉

     六十七代

次の御門、三條院のみかどゝ申しき。御諱ゐさだ。これ冷泉院第二の王子なり。御母贈皇后宮超子と申しき。太政大臣兼家のおとゞの第一の御女なり。この御門は貞觀元年丙子正月三日生れさせ給ふ。寬和二年丙戌七月十六日、東宮に立たせたまふ。同じ日御元服なり。御年十一。寬弘八年辛亥六月十三日位に即かせ給ふ。御年卅六。世をたもたせ給ふ事五年。院にならせたまひて御目を御覽ぜざりしこそいといみじかりし〈か脫歟〉。ことに人の見奉るには聊變らせ給