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一日位に即きたまふ。御年八十四。世をたもち給ふ事六十年なり。五十一年と申しゝに內宴行ひ給ひしに、成務天皇のいまだみこと申しゝと、武內こそ其座に參り給はざりしかば、御門たづねさせ給ひしに、申したまはく「人々皆御あそびの間心をゆるぶべきをりなり。その時もしひまにうかゞふ心あるものも侍らむにと思ひて、門をかためてなむ侍る」と申し給ひしかば、御門いよいよならびなく寵し給ひき。武內は孝元天皇の御孫なり。この後代々の御門の御後見として世に久しくおはしき。今にやはたの御傍に近くいはゝれ給へるは、この人にいます。五十八年二月に近江の穴穗宮にうつりにき。熊野の新宮はこの御時にぞはじまり給へりし。

     第十三成務天皇〈六十一年崩。年百九。葬大和國狹城楯列池後陵。〉

次の御門成務天皇と申しき。景行天皇の第四の御子。御母の皇后兩道入姬なり。景行天皇の御世五十一年辛酉八月壬子の日東宮に立ち給ふ。辛未の年正月五日戊子位に即き給ふ。御年四十九。世をたもちたまふ事六十一年。御かたちことにすぐれ、御たけ一丈ぞおはしましゝ。武內この御時三年と申しゝにぞ大臣になり給へりし。大臣と申す事はこれよりぞはじまれる。もとは棟梁の臣と申しき。これも唯大臣とおなじことなり。つかさの名をかへ給へりしばかりなり。この御門御子おはせざりしぞ口をしくは侍りし。さて御甥のみこぞ位には即き給へりし。

     第十四仲哀天皇〈九年崩。年五十二。葬河內國惠我長野西陵。〉