Page:Kokubun taikan 07.pdf/214

提供:Wikisource
このページは校正済みです

その程の世のならひにて近くつかうまつる人々を生きながら、御墓にこめられにけり。この人々久しくしなずしてあさ夕に泣きかなしぶを、御門聞しめして仰せらるゝやう「生きたる人をもちて死ぬるにしたがへむことは、いにしへより傳れることなれども、われこの事を見聞くに悲しきことかぎりなし。今よりこの事永くとゞむべし」とのたまひて、その後はじの氏の人、土にて人がた、けものゝかたなどを作りてなむ、人のかはりにこめ侍りし。おほやけこれをよろこびて、はじといふ姓をたまはせしなり。この比大江と申す姓はその土師の氏のすゑなるべし。八十二年この程とぞうけたまはりし。祇園精舍は荒れはてゝ人もなくて九十年ばかり過ぎにけるを忉利天皇の第二の御子を下して人王となして又造りみがゝるとうけたまはりき。佛などのおはしましゝにもまさりてめでたくぞ造られにける。九十三年と申しゝにぞ後漢の明帝の御夢にこがねの人きたると御覽じて、明くる年天竺より始めて佛法もろこしへ傳りにし。

     第十二景行天皇〈六十年崩。年百四十三。葬大和國山邊道上陵。〉

次の御門景行天皇と申しき。垂仁天皇の第三の御子、御母の皇后日葉酢媛命なり。垂仁天皇の御世三十年辛酉正月甲子の日東宮に立ちたまふ。父みかど二人の御子に申し給ふやう「おのおの心に何をかえむと思ふ」とのたまふに、兄のみこ「われは弓矢なむほしく侍る」と申し給ふ。おとゝのみこ「我は皇位をなむえむと思ふ」と申したまふ。この言に從ひてこのかみの御子には弓矢をたてまつり、弟の御子をば東宮に立て奉り給へりしなり。辛未の年七月十