Page:Kokubun taikan 07.pdf/212

提供:Wikisource
このページは校正済みです

次の御門崇神天皇と申しき。開化天皇第二の御子、御母皇后伊香色譴命なり。甲申の年正月十三日位に即き給ふ。御年五十二。世をしり給ふ事六十八年なり。六年と申しゝに齋宮ははじめて立ち給へりしなり。又國々の貢物かちよりもてまゐる事民も苦び日數も經る、あしきことなりとて諸國に船を造らさ〈如元〉せたまひき。六十二年と申しゝころほひ天竺に惡王おはして祇園精舍を毀ちて人を殺す所を定め給ひしかば、四天王沙竭羅龍王いかりをなしてこぼちける人を大なる石をもちて押し殺し給ひけるとぞうけたまはり侍りき〈如元〉。六十五年と申しゝに熊野の本宮は出でおはしましゝなり。凡そこの御門御心めでたくことにおきてくらからずおはしましき。

     第十一垂仁天皇〈九十九年崩。年五十一。葬大和國添上郡伏見東陵。〉

次の御門垂仁天皇と申しき。崇神天皇第三の御子。御母皇后御間城姬なり。崇神天皇の四十八年四月に御夢のつげありて東宮に立て奉り給ひき。御年二十。壬辰の年正月二日位に即き給ふ。御年四十三。世をしりたまふ事九十九年なり。四年と申しゝに后の兄よきひまをうかゞひて后に申し給ふやう、「このかみとをうととたれをか志ふかく思ひ給ふ」と申し給ふに后何ともおぼさで「兄をこそは思ひまし奉れ」とのたまふを聞きて、この御兄のたまはく「しからばをうとは我が色おとろへず盛なる程なり。世の中にかたちよくわれもわれもと思ふ人こそ多かることにて侍れ。われ位につきなばこの世におはせむほどは世の中を御心にまかせ奉るべし。御門をうしなひ奉りたまへ」とて劍をとりて后に奉り給ひつ。后あさましく