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竺の祇園精舍の燒けて後旃育迦王の造り給ふとうけたまはり侍りしは。須達長者造りて佛に奉りて二百年と申しゝに燒けにけるを、祇陀太子またもとのやうに造り給へりける後五百年にて燒けたるを今旃育迦王は造り給ふとぞ聞えし。

     第八孝元天皇〈五十七年崩。年百十七。葬大和國輕劔池島上陵。〉

次の御門孝元天皇と申しき。孝靈天皇のみ子。御母皇后宮細媛なり。孝靈天皇の御世三十六年丙午正月東宮に立ちたまふ。御年十九。丁亥の年正月十四日に位に即きたまふ。御年六十。世をしらせ給ふ事五十七年なり。三十九年乙丑六月にゆゝしき大雪の降りたりしこそあさましく侍りしか。

     第九開化天皇〈六十年崩。年百十五。葬大和國春日率川坂本陵。〉

次の御門開化天皇と申しき。孝元天皇の第二の御子、御母皇太后鬱色譴命なり。孝元天皇の御世二十年正月に東宮に立ちたまふ。御年十六。癸未の年十一月十二日くらゐにつき給ふ。御年五十一。世をしり給ふ事六十年。この御代の程とぞおぼえ侍る、南天竺に龍猛菩薩と申す僧いますなりと承りし。眞言を始めてひろめ給ひし事はこの菩薩なり。又祇園精舍はふたたびまで燒けしを旃育迦王の造り給へりけるを百年と申しゝにぬす人やき侍りにけり。いづこもいづこも心うきは人の心なり。その後十三年ありて、六師迦王又造り給へると承りしはこの御時位に即かせ給ひて十年など申しゝほどとぞおぼえ侍る。

     第十崇神天皇〈六十八年崩。年百十九。葬大和國山邊道上陵。〉