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世にはそうせさせ給ひてこそは贈三位し給ひしか。いまさぬ跡なれど、この世の光はいとめいほくありかし。おほきさきと申すこの御事なり。女十宮うみ奉り給ふたびかくれさせ給へりし御歎こそいと悲しく承りしか。村上の御日記御覽じたる人もおはしますらむ。ほのぼの傳へうけたまはれども、及ばぬ心にもいと哀にかたじけなうさふらふな。そのとゞまりおはします女宮こそはおほ齋院よ。

     六十五代〈諱師貞。寬弘五年二月八日崩。四十一。〉

次の御門、花山院天皇と申しき。御諱師貞。冷泉院第一の王子なり。御母贈皇后宮懷子と申す。太政大臣伊尹のおとゞの第一のむすめなり。この御門、安和元年つちのえたつ十月廿六日、母方の御おほぢ一條の御家にて生れさせ給ふとあるは世尊寺の事にや。その日は冷泉院の御時の大甞會のごけいあり。同二年己巳八月十三日東宮に立たせ給ふ。御年二歲。天元五年壬午二月十九日御元服せさせ給ふ。御年十五。永觀二年甲申八月廿八日位につかせ給ふ。御年十七。寬和二年丙戌六月廿二日の夜あさましく候ひし事は、人にも知られさせ給はでみそかに花山寺におはしまして、御出家入道せさせ給へりしとぞ。御年十九。世を保たせ給ふ事二年。その後廿二年はおはしましき。あはれなる事はおりおはしましける夜は、藤壺の上の御局の小戶より出でさせ給ひけるに、有明の月のいみじうあかゝりければ、「見證にこそありけれ。いかゞあるべからむ」と仰せられけるを、「さりとてとまらせ給ふべきやう侍らず。神璽寳劔わたり給ひぬるには」と粟田のおとゞさわがし申し給ひけることは、まだ御門