Page:Kokubun taikan 07.pdf/167

提供:Wikisource
このページは校正済みです

殿世にすぐれ拔けいでさせ給へり。天地にうけられさせ給へるはこの殿こそおはしませ。何事も行はせ給ふをりに、いみじき大風吹きなが雨降れども、まづ二三日かねて空晴れ土かわくめり。かゝれば、或は聖德太子の生れ給へると申す。或は弘法大師の佛法興隆のために生れ給ふとも申すめり。げにそれは翁らがさがなめにもたゞ人とは見えさせ給はざめり。猶權者にこそおはしますめれとなむあふぎ見奉る。かゝればこの御世のたのしき事かぎりなし。そのゆゑは、むかしは殿ばら宮はらの馬かひ牛かひ、何の御靈會祭のれうとて、錢紙米などこひのゝしりて野山の草木をだにやはからせし。仕丁おものもちいできて人のものとり奪ふこと絕えにけり。又さとのとね村の行事出できて、火祭やなにやとわづらはしくせめし事今は聞えず。かばかり安穩泰平なる時にはあひなむやと思ふは、翁らが卑しきやどりも帶紐をときて、門をだにさゝで、安らかにのび臥したれば年もわかく命も延びたるぞかし。まづは北のかた賀茂河原につくりたる、のゝまめ、さゝげ、うり、なすびといふもの、この中ごろは更に術なかりし者をや。この年ごろはいとこそたのしけれ。人のとらぬをばさる者にて馬牛だにぞはまぬ。されば唯まかせ捨てつゝ置きたるぞかし。かくたのしき彌勒の世にこそあひて侍れや」」といふめれば、今ひとりの翁、「「唯今はこの御堂の夫をしきりに召すことこそ人は堪へがたげに申すめれど、それはさは聞き給はぬか」」といふめれば、世繼「しかしか、そのことぞある。二三日まぜにめすぞかし。されどそれ奉るにあしからず。故は極樂淨土のあらたに顯れ出で給ふべきためにめすなりと思ひ侍れば、いかで力堪へば參りて仕うまつら