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その時藤原氏長者殿占なはしめ給ふに、御つゝしみあるべきは、年の當り給ふ殿ばらたちのもとに御物忌とかきて一の所よりくばらしめ給ふ。大方かの寺よりはじまりて年に二三度會をおこなはる。正月八日より十四日まで八省にて奈良がたの僧を講師として御齋會行はしめ、おほやけより始め、藤氏の殿ばら皆かぐし給ふ。又三月七日よりはじめて十三日まで藥師寺にて最勝會七日、又山階寺にて十月十日より維摩會七日、皆これらの度に勅使下向してふすまつかはす。藤氏の殿ばらより五位まで奉り給ふ。南京法師は三會講師しつれば已講となづけてその次第をつくりて律師僧綱になる。かゝればかの御寺、いかめしくやんごとなき所なり。いみじき非道の事も山階寺にかゝりぬれば、又ともかくも人ものいはず、山しな道理とつけておきつ。かゝれば藤氏の御ありさまたぐひなくめでたし。おなじ事のやうなれど又つゞきを申すべきなり。后の宮の御おや、御門のおほぢとなり給へるたぐひをこそはあかし申さめとてこそ、さうをば申すべからず。

一 內大臣鎌足のおとゞの御女二所、やがて皆天武天皇に奉り給へり。をとこ女みこたちおはしけれど、御門東宮立たせ給はざめり。いみななし。

一 贈太政大臣不比等のおとゞの御女二所、一人の御女は文武天皇の時の女御。み子生れ給へり。其を聖武天皇と申す。御母をば宮子のいらつめと申しき。今一人の御女はやがて御甥の聖武天皇に奉りて后に立たせたまふ。これを光明皇后と申しき。この御腹に女御子をうみ奉り給へるを、女帝に立て奉り給へるなり。高野の女帝と申すこれなり。四十六代にあた