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御門東宮をはなち奉りてはこれぞうまごの御さととてやがて御わらはなををさ君とつけ奉らせ給ふ。この四家の君たち、昔も今もあまたおはします中に、みちたえずすぐれ給へるはかくなり。その鎌足のおとゞ生れ給へるは常陸の國なれば、かしこの鹿島といふ所に氏の御神をすましめ奉り給ひて、その御世より今にいたるまで、あたらしき御門、后、大臣立ち給ふ折はみてぐら使必ずたつ。御門奈良におはしましゝ時は、鹿島祭とて大和國三笠山にふり奉りて、春日明神となづけ奉りて、今に藤氏の御氏神にて、おほやけ男女つかひたてさせ給ひ、后の宮その氏の大臣公卿皆この明神に仕うまつり給ひて二月十一月上の申日御祭にてなむさまざまの使立ちのゝしる。御門この京にうつらしめ給ひては、又近くふり奉りて大原野と申す。きさらぎの初卯の日、霜月初子の日と定めて年に二度のまつりあり。又同じくおほやけの使たつ。藤氏の殿ばら皆この御神にみでくら十列奉り給ふ。なほも近くとて、又ふり奉りて吉田と申しておはしますめり。この吉田の明神は山陰の中納言のふりたて奉り給へるぞかし。御祭の日四月、後の子日と十月下の申日とを定めて我が御ぞうに御門后の宮たち給ふものならば、おほやけまつりになさむと誓ひ奉りて坐しましければ、一條院の御時よりおほやけまつりにはなりたるなり。又鎌足大臣の御氏寺、大和國多武峯に造らしめ給ひて、そこに御骨ををさめたまひて、今に三昧行ひ奉りたまふ。不比等大臣は山階寺を建立せしめ給へり。それによりかの寺には藤氏をいのり申すに、このみ寺ならびに多武峯、春日、大原野、吉田に例にたがひ怪して事出できぬれは、御寺の住僧禰宜等など、おほやけに奏し申して、