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花經を讀むと申せども、また讀まぬも侍るぞかし。百濟の國より渡りたりける尼して維摩經供養したまへりけるに、御心ち一度にをこたり侍りければ、その經をいみじきものにし給ひけるまゝに維摩會は侍るなり。

一 鎌足の大臣の次郞、左大臣正一位不比等大臣、御年六十二、養老四年八月三日うせたまふ。大臣の位にて十三年。贈太政大臣にならせ給へり。元明天皇、元正天皇の御時二代大臣にておはしましき。

一 不比等大臣の次郞、房前大臣、宰相にて二十年。大炊天皇の御時、天平寶字四年庚子八月七日贈太政大臣になり給ふ。元正天皇、聖武天皇二代、この間宰相にて、天平九年四月十七日にうせ給ひにき。

一 房前のおとゞの四男、眞楯大納言、稱德天皇の御時、天平神護二年三月十六日にうせ給ひぬ。御年五十二。贈太政大臣。公卿にて七年。〈年中行事、十二日うせ給ふとあり。〉

一 眞楯大納言の御二郞、右大臣從二位左近衞大將內麿の大臣、御年五十七。公卿にて二十年、大臣の位にて七年。贈從一位左大臣。桓武天皇、平城天皇二代にあひ給へり。

一 內麿大臣の御三郞、冬嗣大臣は、右大臣までなり給へり。贈太政大臣。この殿よりつぎさまざまあかしたればこまかに申さじ。

鎌足の御代よりさかえひろごり給へり。御末々やうやううせ給ひて、この冬嗣のほどはむげに心ぼそくなり給へり。その程は源氏のみこそさまざま大臣公卿に多くおはせしに、このおとゞ南圓堂をたてゝ丈六のふくえん〈さ脫歟〉すゑ奉り給ふ。さてやがて福緣讃經一千卷供養し給