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所は聖武天皇の御母后、光明皇后とぞ申しける。今一所の御女は聖武天皇の御女御にて、御女子をぞうみ奉りたまへりける。女御子を聖武天皇、女帝にすゑ奉り給ひてけり、この女帝をば高野女帝とぞ申して二度位につかせ給ひたりける。弓削の法皇はこの時ぞかし。さて不比等の大臣男子四所を四家となづけて、皆門をわかち給へりけり。その太郞左大臣武智麿をば南家と名づけ、二郞房前をば北家と名づけ、御はらからの宇合の式部卿をば式家を名づけ、そのおとゞの大夫ふじ丸をば京家と名づけ給ひて、これを藤氏の四家とは名づけられたるなりけり。この四つの家より數多のさまざま國王、大臣、公卿おほくいで給ひてさかえおはします。しかあれと、北家の末今にえだ廣ごり給へり。その御次をまた一すぢに申すべきなり。絕えにたるかたは申さじ。人ならぬほどのものどもは、おのづからその御末にもや侍らむ。かの鎌足のおとゞよりの御つゞき、今の關白殿まで十三代にやならせ給ふらむ。その次第をきこしめせ。藤氏と申せば唯藤原をばさいふなりけりとぞ人はおぼさるらむ、さはあれど、もとすゑ知ることはいとありがたきことなり。

一 內大臣鎌足大臣、藤原の姓賜はり給ひての年の十月十六日うせさせ給ひぬ。御年五十六。大臣の位にて廿五年。この姓の出でくるを聞きて紀の氏の人のいひける、「藤かゝりぬる木は枯れぬるものなり。今ぞ紀氏はうせなんずる」とぞの給ひてけるに、まことにこそしか侍るめれ。この鎌足のおとゞの病づき給へるに、むかしこの國に佛法ひろまらず、僧などはたやすく侍らずやありけむ。聖德太子の傳へ給ふといへども、この頃だに生れたるちごも法