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年。寬平元年つちのとのとり十一月廿一日つちのとのとりの日、賀茂の臨時祭はじまる事この御時よりなり。使右近衞中將時平。〈北野の御かたき 、本院のおとゞの御事なり。〉昌泰元年つちのえうま四月十日、出家せさせたまふ。この御門、いまだ位に即かせたまはざりける時、十一月廿よ日の程に賀茂のみやしろのへんに鷹つがひ遊びありきけるに、賀茂の明神託宣し給ひけるやう「このへんに侍るおきなどもなり。春はまつり多く侍り。冬のいみじくつれづれなるに、祭り給はらむ」と申し給へば、その時に賀茂の明神の仰せらるゝと覺えさせ給ひて、「おのれは力及び候はず。おほやけに申させ給ふべきことにこそ候ふなれ」と申させ給へば「力及ばせ給ひぬべきなればこそ申せ。いたくきやうきやうなるふるまひなさせ給ひそ。さ申すやうあり」とて「ちかくなり侍り」とてかいけつやうに失せ給ひぬ。いかなる事にかと心えず思しめすほどに、かく位に即かせ給へりければ、臨時の祭せさせ給へるぞかし。賀茂の明神の託宣して祭せさせ給へと申させ給ふ日、酉の日にて侍りければ、やがてしも月のはての酉の日臨時の祭は侍るぞかし。あづまあそびの歌は敏行の朝臣のよみけるぞかし。

  「ちはやぶるかものやしろのひめ小松よろづ代ふとも色はかはらじ」。

これは古今に入りて侍り。人皆しらせ給へる事なれども、いみじくよみ給へるぬしかな。今に絕えずひろごらせ給へる御末、御門と申すともいとかくやはおはします。位に即かせ給ひて二年といふに始まれり。つかひ右近中將時平の朝臣こそはし給ひけれ。寬平九年七月五日おりさせ給ふ。昌泰二年つちのとのひつじ十月十四日出家せさせたまふ。御名金剛覺と申し