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西の渡殿に出でさせ給ひて、南にむきて拜せさせ給ふ。春日の明神にいとま申させ給ふなりけり。きやうめい僧都、長義律師して御ぐしおろさせ給ふ。關白をはじめとして、君だち殿ばらなどいとあさましとおぼしめせどおぼしたちて俄にせさせ給ふことなれば、たれもたれもあきれてえせいし申させ給はず、あさましとはおろかなり。ゐげむ法印戒の師したまふ。信ゑ僧都の袈娑衣をぞ奉りそめける。俄の事にてまうけさせ給はざりけるにや、御名行觀とぞつかせ給へりし。後にしもの文字かへて行覺とぞ侍りし。かくて後にぞ、內、東宮の宮たちにもかくと聞えさせ給ひける。聞きつけさせ給へる宮たちの御心ども、あさましくおぼし騷ぐとも事もおろかなり。さるの時ばかり小一條院渡らせ給ひ、御門のとにて御車牛かけおろして、ひき入れて中門のとにておりさせ給ひてこそはおはしましゝか。よせておりさせ給ひて、かしこまり申させ給ふほど、いともかたじけなくめでたき御ありさまなりしぞかし。宮たちも夕さりこそは渡らせ給ひしか。中宮皇后宮などはひとつ御車にてぞ渡らせ給へりし。行啓のありさまもにはかにて例の作法にも侍らざりけり。おなじき年の九月廿七日奈良にて御受戒侍りし。かゝる御ありさまにつけても、めでたき事ども多く侍りしかば皆人しり給へる事どもなればこまかに申し侍らじ。御出家したまへれど、猶又おなじ五月八日准三宮の位にならせ給ひて、年官年爵えさせ給ふ。三人の后、關白左大臣內大臣あまたの納言の御父、御門東宮の御おほぢにておはします。世を知り保たせたまふこと、かくて三十一年ばかりにやならせ給ひぬらむ。今の年は六十におはしませば、かんのとのゝ御產の後に御賀あるべし