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ておはします御事なめれ。されどそれはいと所せげにおはします。いみじきとみの事あれどおぼろげならねばえうごかせ給はず。陣屋ゐぬれば女房たはやすくも心に任せてもえつかまつらず。かやうに所せげなり。たゞ人と申せと御門東宮の御うばにて三后になずらふ御位にて千戶のみふえさせ給ふ。年官年爵を賜はらせ給ひからの御車にていとたはやすく御ありきなどもなかなか御身安らかにてゆかしう思しめしけることは、世の中の物見何の法會やなどあるをりは御車にて御さじきにても必御らんずめり。內、東宮、宮々とわかれわかれこそをしくておはしませど、いづかたにも渡り參らせ給ひてはさしならびおはします。唯今三人の后、東宮の女御、關白左大臣の御母、御門東宮はた申さず、大方世のおやにて、二所ながらさるべき權者にこそおはしますらめ。御ながらひ四十年ばかりにやならせ給ひぬらむ。哀にやんごとなきものにかしづき奉らせ給ふといへばこそおろかなれ。世の中には、いにしへ今の國母大臣皆藤氏にてこそおはしますに、この北の政所ぞ源氏にて御さいはひ極めさせ給ひたる。をとゝしの御賀のありさまなどこそ皆人見聞き給ひしことなれど、猶返す返すもいみじく侍りしものかな。又高松殿のうへと申すもこれ源氏におはします。延喜の御子高明親王、左大臣左大將までならせ給へりしに思はざるほかの事により大臣とられて太宰權帥にならせ給ひて、ながされ給ひし、いとゞ心うかりし事ぞかし。その御女におはします。それをかの殿筑紫におはしましける年、この姬君まだいとをさなくておはしけるを、御をぢの十五の宮と申したるも同じ延喜の御子におはします。女子もおはせざりければ、この君をと