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內裏造りいだして渡らせ給ふ日なり。おなじ年の七月廿九日、后に立て奉るべき宣旨ありき。使は源民部卿俊賢の君ぞしたまひし。中宮大夫にておはせしかばし給ひしにこそ侍るめれ。たゞ今の中宮と申して、うちにおはします。又次の女君はそれも內侍のかみ、十五におはしますに今の東宮十三にならせ給ふ年、治安元年二月一日參らせ給ひて、春宮の女御にてさぶらはせ給ふ。登華殿にぞおはしましゝ。殿入道せしめ給ひて後の事なれは、今の關白殿の御女となづけ奉りてこそは參らせ給ひしか。今年は十九にぞならせ給ふ。姙じたまひて七八月にぞ當らせ給へる。入道殿の御有さま見奉るに、必ずをのこ子にてぞおはしまさむ。この翁ら更によも申しあやまち侍らじ」」と扇をたかくつかひしこそをかしかりしか。「「女君達の御ありさまかくの如し。男君二所と申すは今の關白左大臣賴通のおとゞと聞えさせて、天下を我がまゝにまつりごちておはします。御年廿六にや內大臣攝政にならせ給ひけむ。御門およすげさせ給ひにしかば、寬仁三年十二月廿二日攝政の表奉らせ給ひて、同じき日關白の宣旨下りて、關白にておはします。二十餘にて納言などになり給ふをぞいみじき事にいひしかど今の世の御ありさまかくおはしますぞかし。これを宇治殿と申す。わらは名はたづ君なり。今一所は唯今の內大臣にて、左大將かけて敎道のおとゞと聞えます。世の一の人にておはしますめり。これは二條殿、御わらは名をや〈如元〉君。かゝれば女の御さいはひ、あるはこの北の政所のさかえ極めさせ給へり。御門東宮の御母后とならせ給ふ。あるは御親世の一の人にておはするには、御子も生れ給はねども后にゐさせ給ふめり。女の御さいはひは后こそ極め