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二十日又左大臣にならせ給ひき。そのまゝにほかざまへも別れなりにしぞかし。今にもさこそは侍るめれ。この殿は北の政所二所おはします。この宮々の御母うへと申すは土御門左大臣雅信のおとゞの御女におはします。その雅信のおとゞは亭子の御門の御子一品式部卿宮敦實のみこの御子、左大臣時平のおとゞの御女の腹に生ませ給へりし御子なり。その雅信のおとゞの御女を今の入道殿下の北政所と申すなり。その御腹に女君四所、男君二所ぞ坐します。その御ありさまは唯今のことなれば皆人見奉り給ふらめど、ことばつゞけ申さむとなり。第一の女君は一條院の御時に長保元年十一月一日、御年十二にて女御に參らせ給ふ。又の年同じ長保二年かのえね三月廿五日、十三にて后に立たせ給ひて中宮と申しゝほどに、うちつゞき男御子二人うみ奉り給へりしこそは今の御門東宮におはしますめれ。二所の御母后、太皇太后宮と申して天下第一の母にておはします。その御さしつぎの女君、內侍のかみと申しゝ、三條院の東宮におはしましゝに參らせ給ひて、東宮位に即かせ給ひしかば、長和元年二月十四日に后にたゝせ給ひて中宮と申しき。御年十九。さて又の年長和二年みづのとのうしの年七月廿六日に女御子生れさせ給へるにこそは三四ばかりにて一品にならせ給ひて今に坐します。この頃はこの御母宮を皇太こ宮と申して枇杷殿に坐します。一品宮は三宮になずらへて千戶のみふをえさせ給へるはこの宮に后二所おはしますが如くなり。又次の女君、これも內侍のかみにて今の御門十一歲にて寬仁二年つちのえうま正月三日に御元服させ給ひて、その三月七日まゐり給ひて、おなじ年四月十八日女御の宣旨下されき。この日