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はで、あつきにことつけて御簾も上げわたして、御念誦などもし給はず、さるべき人々呼びあつめ、後撰古今ひろげて興言し遊びてつゆなげかせ給はざりけり。そのゆゑは花山院をば我こそすかしおろし奉りたれ、されば關白をもゆづらせ給ふべきなりといふ御恨なりけり。世づかぬ御事なりや。さまざまよからぬ御事ども聞えしを、傅殿この入道殿二所は如法に孝し奉り給ひきとぞうけたまはりし。


大鏡卷之七

   太政大臣道長

     太政大臣道長

このおとゞ、法興院のおとゞの御五男。御母從四位上行攝津守右京大夫藤原中正朝臣の女なり。その朝臣は從二位中納言山陰卿の七男なり。この道長大臣は今の入道殿下これにおはします。一條院三條院のをぢ、當代東宮の御おほぢにておはします。この殿宰相にはなり給はで永延二年正月廿九日權中納言にならせ給ふ。御年二十三。その年上東門院生れさせ給ふ。正曆二年九月七日大納言にならせ給ふ。正曆三年四月廿七日に從二位したまふ。中宮大夫とぞ申しゝ。御年二十七。宇治殿生れ給ふとしなり。長德元年乙未四月廿七日、左近衞大將かけさせ給ふ。その年の祭のまへより世の中極めてさわがしきに、またの年いとゞいみじくなり