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父の關白殿うせ絡ひし年の六月十一日にうち續きうせ給ひにき。御年廿五とぞ聞えさせ給ひし。御かたちいと淸げに、あまりあたらしきさまして物よりぬけ出でたるやうにぞおはせし。御心ばへこそこと御はらからにも似給はね、いとよく又ざれをかしくもおはせし。この殿はことはらにおはす。皇后宮とおなじ腹の君、法師にて十あまりのほどに僧都になし奉り給へりし、それも三十六にてうせ給ひにき。今一所は小千與君とて後ほかばらの大千與君にはこよなくひきこし、廿一におはせし時に內大臣になし奉り給ひて、我うせ給ひし年、長德元年の事なり、御病重くなるきはに內へ參り給ひて、おのれかくまかりなりて候ふ程、この內大臣伊周のおとゞに百官幷に天下執行の宜旨給ふべきよし申し下さしめ給ひて、我が出家せさせ給ひてしかば、この內大臣殿を關白殿とて世の人集り參りし程に、粟田殿に渡りにしかば、手にすゑたる鷹をそらいたらむやうにて歎かせ給ふ。一家にいみじき事におぼしみだれしほどに、そのうつりつる方も夢の如くにてうせ給ひにしかば、今の入道殿、その年の五月十一日よりして世をしろしめしゝかば、かの殿いとゞ無得におはしましゝ程に、又の年花山院の御事出できて、御官位とられて、唯太宰の權帥になりて長德二年四月廿四日にこそは下り給ひしかは。御年二十三。いかばかり哀に悲しかりしことなりな。されどげに必ずかやうの事、我がをこたりて流され給ふべくもあらず。よろづの事身に餘りぬる人のもろこしにもこの國々にもあるわざにぞ侍るなる。むかしは北野の御事ぞかし」」などいひて鼻うちかむ程あはれに見ゆ。「「この殿も御ざえ日本には餘らせ給へりしかば、かゝる事もおはしますに