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るに、御すき影のおはしまさぬは怪しと思し召しけるに、參りつかせ給ひて御車かきおろしたれど、えしらせ給はず。いかにと思へど、御前どもゝえおどろかし申さで唯侍ふなめるに、入道殿おりさせ給へるに、さてあるべき事ならねばながえのとながら高やかに「やゝ」と御扇をならしなどせさせ給へど、おどろき給はねば、ゐよりてうへの御袴の裾を荒らかにひかせ給ふをりぞ、おどろかせ給ひて、さる御用意はならはせ給へれば、御櫛筓ぐし給へりける、とりいでゝつくろひなどしておりさせ給ひけるに、いさゝかさりげなく淸げにおはしましければ、さばかり醉ひなむ人の、その夜は起きあがるべきかは。それぞこの殿の御上戶はよくおはしましける。その御心のなほをはりまでも忘れ給はざりけるにや、御病つきてうせ給ひけるとき、西にかきむけ奉りて、「念佛申させたまへ」と人々のすゝめ奉りければ、「濟時朝光などもや極樂にはあらむずらむ」と仰せられけるこそあはれなれ。つねに御心にならひおぼしたることなれば、あの地獄の鼎のふたにかしらうちあてゝ、三寳の御名思ひ出でけむ人のやうなることなりや。御興のいとけそうにおはしましゝぞや。帥殿に天下執行の宣旨下し奉りに、この民部卿殿の頭辨にて參り給へりけるに、御病いたうせめて御裝束もえ奉らざりければ、御直衣にて御簾のとにゐざり出させ給ひしにも長押をおりわづらはせ給ひて、女裝束御手にとりて、かたのやうにかづけさせ給ひしなむいとあはれなりし。「こと人のいとさばかりなりたらむはことやうなるべきを、なほいとかはらかにあてにおはせしかば、病つきてしもこそ貌はいるべかりけれとなむ見えし」とこそ民部卿殿はつねにのたまふなれ。その