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     內大臣道隆〈正曆六年三月日依病辭關白。四月六日出家。十月薨。四十二。〉

「「このおとゞ、これ東三條のおとゞの一男なり。御母は女院の御同じ腹なり。關白になり榮え給ひて六年ばかりや坐しましけむ、大疫癘の年にてうせさせ給ひしか。されどもその御病にはあらで御みきのみだれさせ給ひにしなり。をのこは上戶ひとつの興の事にすれど、過ぎぬるはいと不便なる折侍りや。祭のかへさ御覽ずとて、小一條大將、閑院大將と一つ御車にて紫野に出させ給ひぬ。鳥のついゐたるかたをかめに作らせ給ひて、興あるものにおぼして、ともすれば大みき入れてめす。今日もそれにて參らする。もてはやさせ給ふ程に、あまりやうやう過ぎさせ給ひて後は、御車のしりぐちのすだれ皆上げて、三所ながら御もとゞりはなちておはしましけるは、いとこそ見苦しかりけれ。大方この大將殿達の參り給へる、尋常にて出で給ふをばいとほいなく口惜しき事におぼしめしたりけり。ものもおぼえず御裝束もひきみだりて御車さしよせつゝ、人にかゝりて乘り給ふをぞいと興あることにせさせ給ひける。但この殿の御醉のほどよりは疾くさむることをぞせさせ給ひし。御賀茂詣の日は社頭にて三度の御かはらけ定りにてまゐらするわざなるを、その御時には禰宜神主も心えて、大かはらけををぞまゐらせしに、三度はさらなることにて七八度などめして、上社に參り給ふ道にては、やがてのけざまにしりの方を御枕にて不覺におほとのごもりぬ。一の大納言にてはこの御堂ぞおはしましゝかば、御覽ずるに、夜に入りぬれば御前の松の光にとほりて御覽ず