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輕くおはしますこそ一家の殿ばらうけ申させ給はざりしかど、さるべき事の折などはいみじうもてかしづき申させ給ひし。帥の宮、一條院の御時の御作文に參らせ給ひしなどには御前などさるべき人多くて、いとこそめでたうて參らせ給ふめりしか。御前にて御したうづのいたうせめさせ給ひけるに、御心もたがひていと堪へ難うおはしましければ、この入道殿にかくと聞え申させ給ひて、鬼のまにおはしまして御したうづをひきぬぎ奉せせ給へりければこそ御心ちなほらせ給へりけれ。贈皇后宮の御一つ腹の今一所の姬君は圓融院の御時、梅壺の女御と申して、一のみこ生れ給へりき。そのみ子五つにて東宮に立たせ給ひ、七つにて位に即かせ給ひにしかば、御母女御殿、寬和二年ひのえいぬ七月五日后にたゝせ給ひて、中宮と申しき。この御門を一條院と申しき。その母后入道せさせ給ひて、太上天皇とひとしき位にて女院ときこえさせき。一天下をあるまゝにしておはしましゝ。この父おとゞの太郞の君、女院の御ひとつ腹の道隆のおとゞ、內大臣にて關白せさせ給ひき。次郞君は陸奧守倫寧ぬしの女の腹におはせし君なり。道綱ときこえさせて大納言までなりて右大將かけ給へりき。この母君極めたる和歌の上手におはしければ、この東三條殿の我が方に通はせ給ひけるほどの事、歌など書きあつめて、かげろふの日記となづけて世にひろめ給へり。殿のおはしましたりけるに、門をおそくあけゝれば、度々御せうそこいひいれさせたまふに、女君、

  「歎きつゝひとりぬる夜のあくるまはいかにひさしきものとかはしる」。

いと興ありとおぼしめして、