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ものに侍るがまうで來て語り侍りしなり。頭中將顯基の君の御若君おはすとかや。御いかをば四條に渡しきこえて、太政大臣殿こそくゝめさせ給ひけれ。御おほぢの右衞門督ぞ抱き聞えたまへるにこの若君のなき給へば、「例はかくもむづからぬに、いかなればかゝらむ」と右衞門督たちゐ慰め聞え給ひければ、「おのづからちごはさこそはあれ、ましもさぞありし」と太政大臣殿のたまはせけるにこそさるべき人々參り給へりける皆ほゝゑみ給ひにけれ。中にも四位少將隆國の君は常に思ひ出でゝぞ今にわらひ給ふなる。かやうにあまりに古代にぞおはしますべき。むかしの御童名は宮を君とこそは申しゝか。

     太政大臣兼家のおとゞ

これ九條殿の三郞君、東三條のおとゞにおはします。御母一條攝政におなじ。冷泉院圓融院の御をぢ、一條院三條院の御おほぢ、東三條女院贈皇后宮の御父。公卿にて二十年、大臣の位にて十二年、世をしらせ給ふ事榮えて五年ぞおはします。正曆元年七月二日うせさせ給ひにき。御年六十二。出家せさせ給ひてしかば後の御いみななし。內に參らせ給ふにはさらなり、牛車にて北の陣まで入らせ給へば、それより內は何ばかりのほどならねど、紐解きて入らせ給ふとぞ。されどそれはさてもありなむ。すまひのをり東宮のおはしませば二所のぎよ前に何をもおしやりて御汗とりばかりにてさぶらはせ給ひけるこそ世にたぐひなくやんごとなき事なれ。末には北の方もおはしまさゞりければ男ずみにて、東三條殿の西の對を淸凉殿づくりに御しつらひより始めてすませ給ふなどをぞ、あまりなる事に人申すめりし。なほた